名誉会長のRunブログ

ヤクタターズ名誉会長の活動報告

20年の時を経て

その翌日の感覚は、
今でも忘れられません。

長い間、ずっと両脚にまとわりついていた、
疲労」という名の重りのような薄い膜が、
全て剥ぎ取られたような、
すっと、軽くなったような、
今までの感覚が、いかに異常だったかを実感できるような、
劇的な変化が、体に現れました。


普通のジョグでさえ脚が重く、
「調子の良さ」というものを、すっかり忘れていた状態から、
脚が勝手に動いていく、あの本来のジョグの感覚がよみがえり、
まるで自分が自分でないような感覚にすら陥りました。

あまりにも長い間、
体のだるい状態が自然な状態になっていたため、
元気な自分、脚に疲れがない自分を、
はじめは受け入れるのに戸惑いました。

「こんなはずはない」と。


しかし、そんな自分の戸惑いとは裏腹に、
結果はその翌日、早くも現れました。


胸肉を食べ始めた2日後、
ちょうど小江戸ハーフマラソンに出場しました。

ハーフマラソンとしては、2008年に仙台を走って以来、
約6年ぶりの出走で、
それまでの社会人ベスト、1時間13分台後半くらいで走れれば御の字、
くらいにしか考えていませんでした。

ところが、スタート直後、
それまでの自分とは、
まるで違うスピードで走れる自分がそこにいました。


これまで、ハーフのレースに出れば、
終盤のペースダウンを恐れ、
スタート直後は慎重にラップを刻んでいくのが慣例になっていましたが、
この時は、気がつくと周りに学生の集団がおり、
意図的にペースを抑えなければ、5kmを16分台で入る勢いでした。

その後も、しばらく17分台前半のラップを刻みながら、
こんなペースで、本当に大丈夫なのか、と、
自分の体の変化に、恐れすら感じながら、
そのままラップを刻み続けていきました。

その後、13kmすぎにはいつもの脚の重さが現れ、
結局、次第にラップを落としていきました。
自分としては、ある程度予想はしていた流れでしたが、
しかし、ゴールタイムは社会人ベストを40秒近く上回る、
1時間13分台前半。
終盤つぶれてのこのタイムには、
大きな手応えを感じました。



完治はしていない。
しかし、確実に良くはなっている。


この事実は、その後の練習内容を、
大きく変えることになりました。

まず、それまで週に一度ポイント練を入れれば、
一週間は空けなければ、次の練習ができない状態でしたが、
週に二回の頻度でポイント練を入れても、
調子を維持できるようになりました。

さらに、そのペースも、
1000mで言えば、3分20秒近くかかっていたインターバルが、
3分一桁から2分台のペースで行えるようになるにまで、
強度を上げることができるようになれました。


練習の強度が上がれば、試合での記録にも好影響をもたらし、
1500m、5000mと、立て続けにここ数年のベストや社会人ベストが出るようになり、
ある程度の調整であれば、だいたいこれくらいで走れるだろう、
という安定感も出てきました。


そして、19歳で慢性疲労状態に陥る前には、当然のようにできていた、
「苦しい中でも脚の力で押していける走り」が戻ってきたのが、
2016年、ふかやシティハーフマラソンでした。

ここでも、結局最後の5kmで失速するのですが、
16kmまでは、力強い脚の力を実感しながらペースを維持し続ける、
あの大学1年のころの走りでした。

ゴールタイムは、小江戸からさらに1分縮める、1時間12分台前半。


確かに、練習内容が大幅に変わったことは間違いないですが、
それまでの15年で縮めたタイムを、大幅に上回る記録更新であることから、
自分の体が元に戻りつつあることを確信するには、十分な事実でした。



その後も、「食事を作るところからトレーニングの一環」と考え、
毎日のように鳥の胸肉を料理に取り入れ、
現在まで食べ続けています。

練習内容はさらに充実し、
これまで、どうしても結果を出すことができなかったフルマラソンでも、
最後の壁を突破することができました。




初めてサブスリーを達成した時、
自分は、2時間40分をきれずに人生を終えれば、
この病に敗北したことになる、と考えていました。

今回の東京で、その戦いにも決着がついたと考えています。

日常生活には、ほとんど影響がないほど、
疲労状態は、改善しました。
フルマラソンで、2時間40分を切れる状態で、
「病んでいる」とは、もう言わなくてもいいでしょう。



確かに、完治はしていません。

完治はしてないけれど、
ここからさらに、記録を更新するための練習を積み、
競技としてランニングに取り組んでいく程度の体調には戻っている印象です。

むしろ、一度ああなってしまった自分の体が、
どこまで快復し、記録をどこまで伸ばせるか、
そうした期待感を感じられる自分がいます。


これからも、トレーニングについての、
普遍的な理論を考えていく作業は変わらず、
自分自身の体を使って、それを具現化していこうと思っています。

加齢とともに、記録は伸びなくなっていくでしょう。
それでも、その年齢なりの競技との向き合い方、
記録の維持の仕方があるはずで、
それを通して、ヤクタ活動を今後も継続していければと思っています。




それにしても、
22年という歳月は、
当時19歳の学生が思い描ける歳月としては、
あまりにも長すぎました。